私は高校の教師でした。
私は美術部の顧問でしたが、生徒を県展に入選させるなどして、展覧会実績で新聞に取り上げられるほど、注目を浴びました。
だから、運動部の顧問などと同じように、部活実績ばかりを意識しているように思われたかもしれません。
しかし、私は本当のところ、部活は人格形成の場と考えていました。
エドケーション・スルー・アートという言葉がありますが、美術を通しての教育を考えていたのです。
美術は手段であって目的ではない。一番の目的は「人格形成」、言い換えると「人間つくり」でした。私は絵を教えるより、この方が多かったと思います。
そのように思われない人もいたというのは、私の外に対する言動がうまく行かなかったせいでしょう。しかし、内容を知っている人が日々の美術部をごらんになれば、そのことがお分かりいただけると思います。
教師の大変さは、生徒をこちらに向かせることです。
自分が絵を描くのは、大変うまいという先生は多いです。また、生徒に教える力も優れている先生は、かなり多いです。みんな美大を出ているのですから、それは当然です。
しかし、生徒を気持ちよく、常にこちらへ向かせるのは、大変なことです。そこで教師の指導力に差が出ます。
いつでもやる気があって、全員がいつも先生の方を向いているなら、誰が教えても生徒はグングン伸びていくでしょう。しかし、そうはいかないのです。
果たしてどうでしょうか?私は、生徒を日曜も教えました。夜まで教えました。合宿までして教えました。生徒はよく付いてきました。
しかし、それを実現できたのは、人間教育なのです。
ハートを育てなければ、そうはなりません。
日曜日は来ない、普段の日もやる気がない日は、早く帰る。まさか合宿なんか参加しない。ということが起こるでしょう。
どうですか、日曜も活動する美術部が作れますか?
しかし、運動部の子は、日曜日にやるのが当たり前なのです。
ならば、美術部だってできないことはないですよね。
私はそれを考えました。
生徒たちはすばらしい生徒になりました。
「菅野先生はよい子に囲まれて幸せですね」と言われました。
しかし、美術部は特別よい生徒が入ってくる訳ではありません。
良い子にするのです。
一緒にいて気持ちの良い生徒にするのです。
そこが一番難しい所なのです。
それができたら、どんな美術の先生でも生徒に良い絵を描かせることができるでしょう。
※「良い子」とは、私が考える極普通の真面目な生徒のことです。
はきはき、ニコニコ、きびきび、そして品良く。
服装、髪型、挨拶、返事、言葉使い、表情、態度の良い生徒です。
気配りと目配りができる生徒。
人の気持ちがわかる生徒。
自分の置かれた立場をわきまえられる生徒。
聞くべき時は聞き、見るべきものは見る、やるべきことはやる生徒です。
この状態を常に求めました。
お坊さんの修行のビデオなどを見せて、自分の甘さを考えさせました。
世の中で頑張っている人の取り組みをビデオで見せたり、話してやったり、本を読ませたりしました。
覚悟と態度を求めたのです。
それができない生徒は教えないという厳しさで臨みました。
それは、常にそのような姿勢で私が臨まなければならないことでもありました。
返事ができなければ、「返事は?」と言わなければなりません。
言うときと、言わない時があってはなりません。
いつでもその姿勢を崩さないということは、教師として一番大変なところです。
指導の一貫性ということです。
たった一つのことでも、きちんとやらせたいと望むなら、それを四六時中、一貫してやることです。大抵の先生はそれができないで、崩れます。
意見を言わせれば、なかなか立派なことを言う先生でも、やっていることを見れば、できていません。
極端な例を示せば、職員室で生徒のスカートの長さを注意した先生が生徒からこう言われました。
「先生は、職員室で他の先生がいるときだけ、そういう注意をするけど、部活にいる時に注意したことがないじゃないですか」
でした。
普段注意もしないで、他の先生の手前、言わざるを得ないときだけ言っているということです。それでは、生徒から見透かされてしまいます。指導が一貫していないのです。
常に、一貫した姿勢を貫くのは、とても大変です。しかし生徒は不公平を見抜く天才です。誰には注意をして、誰にはしなかった。ある時は注意しないのに、こんな時だけ注意するなどです。それが、信頼をなくし、先生の言うことをきかないという状態をつくる原因にもなります。
「そんなことをしていたら、どうかしちゃうぜ」という先生もいるでしょう。
「ロボットじゃないんだから、いつでも同じようにはいかないよ」と。
しかし、そこが教師の指導力にかかわるのです。生徒が気持ちよく先生の言うことを受け入れられるかどうかの、ポイントなのです。
美術の先生は、みんな絵を教えるすごい力を持っているけれど、この一貫性の指導ができる先生が果たしてどのくらいいるでしょうか。そして、生徒のハートを育てて、先生が黙っていても生徒が自分たちで、どんどんやるような集団になるという美術部がどのくらいあるでしょうか。
本庄第一高校の美術部のすごいところはその辺にあると思います。
絵を教えるより、人間教育をしていたというのは、そういう意味なのです。
逆に言えば、しっかりした人間教育ができれば、誰が教えてもすごい絵を描く美術部になるということです。だから、問題は教育なのです。
私は美術部の顧問でしたが、生徒を県展に入選させるなどして、展覧会実績で新聞に取り上げられるほど、注目を浴びました。
だから、運動部の顧問などと同じように、部活実績ばかりを意識しているように思われたかもしれません。
しかし、私は本当のところ、部活は人格形成の場と考えていました。
エドケーション・スルー・アートという言葉がありますが、美術を通しての教育を考えていたのです。
美術は手段であって目的ではない。一番の目的は「人格形成」、言い換えると「人間つくり」でした。私は絵を教えるより、この方が多かったと思います。
そのように思われない人もいたというのは、私の外に対する言動がうまく行かなかったせいでしょう。しかし、内容を知っている人が日々の美術部をごらんになれば、そのことがお分かりいただけると思います。
教師の大変さは、生徒をこちらに向かせることです。
自分が絵を描くのは、大変うまいという先生は多いです。また、生徒に教える力も優れている先生は、かなり多いです。みんな美大を出ているのですから、それは当然です。
しかし、生徒を気持ちよく、常にこちらへ向かせるのは、大変なことです。そこで教師の指導力に差が出ます。
いつでもやる気があって、全員がいつも先生の方を向いているなら、誰が教えても生徒はグングン伸びていくでしょう。しかし、そうはいかないのです。
果たしてどうでしょうか?私は、生徒を日曜も教えました。夜まで教えました。合宿までして教えました。生徒はよく付いてきました。
しかし、それを実現できたのは、人間教育なのです。
ハートを育てなければ、そうはなりません。
日曜日は来ない、普段の日もやる気がない日は、早く帰る。まさか合宿なんか参加しない。ということが起こるでしょう。
どうですか、日曜も活動する美術部が作れますか?
しかし、運動部の子は、日曜日にやるのが当たり前なのです。
ならば、美術部だってできないことはないですよね。
私はそれを考えました。
生徒たちはすばらしい生徒になりました。
「菅野先生はよい子に囲まれて幸せですね」と言われました。
しかし、美術部は特別よい生徒が入ってくる訳ではありません。
良い子にするのです。
一緒にいて気持ちの良い生徒にするのです。
そこが一番難しい所なのです。
それができたら、どんな美術の先生でも生徒に良い絵を描かせることができるでしょう。
※「良い子」とは、私が考える極普通の真面目な生徒のことです。
はきはき、ニコニコ、きびきび、そして品良く。
服装、髪型、挨拶、返事、言葉使い、表情、態度の良い生徒です。
気配りと目配りができる生徒。
人の気持ちがわかる生徒。
自分の置かれた立場をわきまえられる生徒。
聞くべき時は聞き、見るべきものは見る、やるべきことはやる生徒です。
この状態を常に求めました。
お坊さんの修行のビデオなどを見せて、自分の甘さを考えさせました。
世の中で頑張っている人の取り組みをビデオで見せたり、話してやったり、本を読ませたりしました。
覚悟と態度を求めたのです。
それができない生徒は教えないという厳しさで臨みました。
それは、常にそのような姿勢で私が臨まなければならないことでもありました。
返事ができなければ、「返事は?」と言わなければなりません。
言うときと、言わない時があってはなりません。
いつでもその姿勢を崩さないということは、教師として一番大変なところです。
指導の一貫性ということです。
たった一つのことでも、きちんとやらせたいと望むなら、それを四六時中、一貫してやることです。大抵の先生はそれができないで、崩れます。
意見を言わせれば、なかなか立派なことを言う先生でも、やっていることを見れば、できていません。
極端な例を示せば、職員室で生徒のスカートの長さを注意した先生が生徒からこう言われました。
「先生は、職員室で他の先生がいるときだけ、そういう注意をするけど、部活にいる時に注意したことがないじゃないですか」
でした。
普段注意もしないで、他の先生の手前、言わざるを得ないときだけ言っているということです。それでは、生徒から見透かされてしまいます。指導が一貫していないのです。
常に、一貫した姿勢を貫くのは、とても大変です。しかし生徒は不公平を見抜く天才です。誰には注意をして、誰にはしなかった。ある時は注意しないのに、こんな時だけ注意するなどです。それが、信頼をなくし、先生の言うことをきかないという状態をつくる原因にもなります。
「そんなことをしていたら、どうかしちゃうぜ」という先生もいるでしょう。
「ロボットじゃないんだから、いつでも同じようにはいかないよ」と。
しかし、そこが教師の指導力にかかわるのです。生徒が気持ちよく先生の言うことを受け入れられるかどうかの、ポイントなのです。
美術の先生は、みんな絵を教えるすごい力を持っているけれど、この一貫性の指導ができる先生が果たしてどのくらいいるでしょうか。そして、生徒のハートを育てて、先生が黙っていても生徒が自分たちで、どんどんやるような集団になるという美術部がどのくらいあるでしょうか。
本庄第一高校の美術部のすごいところはその辺にあると思います。
絵を教えるより、人間教育をしていたというのは、そういう意味なのです。
逆に言えば、しっかりした人間教育ができれば、誰が教えてもすごい絵を描く美術部になるということです。だから、問題は教育なのです。