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Channel: 絵画指導 菅野公夫のブログ
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麓原会夏季展で

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麓原会夏季展、二日目。

会場で、いろいろな人に声をかけられるが、今日はこんなやりとりがあった。

その方は、私が本庄第一高校の美術部の指導者であったことをよく御存知で、さわらび展にも何度も来ていただいて、喜んで見てくださった方である。

その方から、今日次のように言われた。
「先生は、すごいねえ、生徒たちにあれだけの絵を描かせたのだから」とお褒めいただいた後、
「だけど、生徒たちのあのきれいな絵にリヤカーなんかを描かせるのは、やめて、ぜひきれいな風景を描かせてください」と付け加えた。
そして、笑いながら、「頼みますよ、先生!」とまるで励ますようにお願いされた。

私は、「はい、わかりました」と笑顔で答えようかとも思ったけれど、それはやめて、「それは違いますよ」と言ってしまった。

真面目に受け取って、真面目にお相手したのである。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

私は、むしろ、きれいな風景を描かせるつもりがないということを言いたいのである。
これから絵を学ぶ高校生に、きれいな絵ハガキみたいな絵を描かせるつもりはない。

風景の中にリヤカーがあるから、テーマが生まれると思っている。
もちろん、リヤカーというのは、一つの例である。常にリヤカーではない。

しかし、現実にリヤカーを描いた子もいることと、その方がリヤカーを例に出したので、リヤカーで話してみる。

風景の中にリヤカーがあるとなぜ、テーマ性が生まれるかということを説明すると、リヤカーが置かれることで、人の存在が意識される。何も置かれていない風景では、それを感じないけれど、リヤカーがあることで、人が出てくるのである。
そこへリヤカーを持ってきた人がいるはずである。
なぜ、人がいないのだろうと思う。何かの作業をしていたが、ちょっと休憩でその場を離れたのかもしれない。リヤカーの中に野菜でも入っていれば、それは農作業をしていたのだろうと想像される。リヤカーが蔦でも絡んで、さび付いていれば、それは置き去りにされた粗大ごみかもしれない。どちらにしても、人間との関係を物語る。
だから、そのリヤカーの状況によって、物語が生まれるのである。
したがって、そこにはテーマ性があるというのである。

私は、ただの平凡な風景より、そういうテーマ性のあるものを描かせようとした。
何年もさわらび展をご覧いただいている、いわば、さわらび展のファンともいえる人が、その辺を
ご理解いただけなかったことは残念だった。

まあ、素人は、確かにきれいな風景に憧れるんだろうなあとは思う。

そういうきれいな風景は、かなり熟練してこないと、ハイレベルな絵にするのは難しいのである。それを絵を始めたばかりの高校生に求めてはいけない気がする。
例え、きれいに描けたとしても、その後のその子の絵画人生を考えたとき、あまり、意味がないように思う。



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