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Channel: 絵画指導 菅野公夫のブログ
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高校時代の思い出 5

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教室での私

私のクラスには、同じバスケット部の部員が二人いました。
その二人とは、本庄西中学出身のキャプテンと副キャプテンです。
なんという巡り合わせでしょう。この二人は、私のバスケットの宿命のライバルです。

巨人の星で言えば、花形満と左門豊作です。
私のブログのバスケットの思い出をお読みの方は、ご存じだと思いますが、私の児玉中学と本庄西中学は、県大会出場をかけて、
常に決勝戦で顔を合わせ、お互いにしのぎを削ったライバルでした。
勝敗は、二勝二敗。県大会の出場において、二勝一敗で我々が勝ったという結末でした。

この二人は、本庄市児玉郡のスター的存在で、常に周りから注目をあびる選手でした。
それは、プレーもさることながら、顔もいいし、とにかくかっこいいのです。
キャプテンのOくんは、シュートを決めるたびに、長めの前髪を中指と薬指の間に挟んで、かっこよく横に流すのです。
しかも、嬉しそうな笑顔でやるから、かわいいというか、いかしているというか、今でいうジャニーズのような輝きで、
拍手喝さいを浴びていました。

プレーにおいては、私もスーパースターのつもりでしたから、負けているつもりはないのですが、なにせこちらは坊主頭です、
かき上げようにも髪の毛がありません。だから、真似をすることもできず、チキショウと思っていました。

そして、一番うまいのが、副キャプテンのNくんですから、そのスーパースターの二人と私は高校で一緒にプレーすることになったのです。
この二人は、バスケットということを外しても女の子によくモテました

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すこし、違う話をしますが、高校に入った私は、中学とは違うキャラクターを演じました。
それは、冗談をいう私です。実は、高校に入って私は少し解放された気分になりました。
実は、中学時代は父親が、校内にいたのです。教務主任として、職員室にどっかと座っていました。
ですから、私はあの菅野先生の子どもという目で、全員の先生から見られました。
これは、ちょっと辛いことです。
だから、私は常に親の監視のもとにいたのです。
親の手前もあり、馬鹿なことはできないなという感じです。

そのため、真面目を通しました。私が何かをやることで、父親に迷惑をかけたくないということもありました。
だからということもないですが、私は冗談一つ言わない生徒でした。

あるとき、一回だけ冗談を言ったら、みんなが驚きました。「おい、菅野が冗談を言ったぞ、雨が降るな」と。

高校に入って、私はやっと親の監視から逃れた気分でした。これで、馬鹿がやれるぞ!という感じです。
まず、やってみたのが、教室の全員をいかに笑わせるかです。
これは、気分がよかったです。

誰も、私がどんな人間かを知りません。そのため、新しいドラマに出る俳優さんと同じように、その場だけの演技も可能なのです。
もちろん、同じ児玉中学出身の生徒もいましたが、私を詳しく知る人はいませんでした。だからその子たちでさえ、私が冗談一つ言わないということを知らなかったのです。

それで、いろいろなチャレンジをしました。手始めは、面白いことを言うキャラクターです。
そして、次は頭が悪い人間のキャラクターでした。
先生から質問されても、わからないふりをするのです。実は、これは、中学時代の友達がやったことでした。
答えがわかっているのに、わかりませんと言って、みんなを笑わせました。
私はそれをやってみたかったのです。

それも、みんなを笑わせる一つの手段でもありました。
しかし、それは、飛んでもない事態を引き起こす原因にもなりました。

みんなが私を本当に馬鹿なんじゃないのと思ったことです。
そして、私を舐めてかかる人間が現れました。
それは下手をすると、いじめということにもつながりかねないものでした。

同じクラスに、バレー部のIくんという友達がいて、そいつが私を舐めてかかりました。
あるとき、「菅野、口を開けてみ」と私に言いました。それで、私が口を開けると、いきなり泥を投げ入れました。
私は驚いて、すぐに口から泥を吐きだしましたが、ふざけたことをする奴だなと思って、怒りました。

参ったなあ、俺を誰だと思っているんだ!と思いましたが、その時はふざけんなよで済ませました。
結果的には、後で、Iくんもそのことを後悔する時が来るのですが、それは本当の私を知った後の話です。


しかし、これは、私が常に、教室で馬鹿を演じているための結果なのかもしれない。
馬鹿なことばかり言ったりしていると、こういう舐めたこともされてしまうのかと反省したのです。

しかし、馬鹿だと思われていると、いいこともありました。それは誰とでも親しくなれることでした。
中学時代は、私は成績の優秀な生徒と思われ、ちょっと近寄り難い、極端なことを言えば、世界が違う人という目で見られたことがありました。

そのことがあったので、頭が悪いと思われていると、だれでも気軽に声をかけてくれる気がしたのです。案の定というかそのように感じたこともあります。

ただ、先生は笑っていました。英語の授業で、簡単な質問が私に回ってきたとき、私は例によって「わかりません」と言いました。すると、周りの生徒は、「おい、そんなんがわかんねん、馬鹿じゃねん」と。
「そんなんで、よく本庄高校に合格できたな」と。

その時は、中間テストの後でしたが、テストを配った日でした。私は38点でした。
それは、40点満点の38点です。そして、このクラスの最高得点でした。
先生が、最高得点は38点ですと言った後でした。

そして、私が指されたときは、とても簡単な問題でした。先生は私ができなわけがないことを知っていました。
しかし、私は自分のキャラクターを演じたのです。だから、笑ったのです。
私がわざと馬鹿を演じていることを知ったのでした。

中間テストをする前は、私の「わかりません」は、本当にわからないのかと思っていたかもしれません。
しかし、先生は、それが演技だと知ってしまいました。

私はクラスで、馬鹿を演じながらも、実は成績トップを狙っていました。
バスケットをしながらでも、がり勉に勝ってやるという気持ちでした。
本庄高校では、同じくらいの成績の人間が集まっているはずだ。そうであるなら、自分が一番になってもおかしくないはずです。

実は、周りに馬鹿だと思わせておいて、本当は成績1番ということに面白さを感じたのです。

これは、受験生のブルースでした。

友達に勉強してるかときかれても、全然してないよと答え時、相手に油断をさせといて、その間に俺は勉強する

テストが終われば、自信なげに、全然あかんと答えとき、相手に優越感与えておいて、後でショックを与えるさ

この歌詞と同じようなことをしようとしていたのです。

しかし、結果的に、一学期はクラスで2番でした。

実現したのは、二学期で、学年末も1番を取り、一年生はクラスの1番で終わりました。

つづく


















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